2018年05月30日卒業生からの寄稿(大辻房枝さん)

本会の顧問である大辻房枝先生から大学の思い出を寄稿していただきました。

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                                                     小学校以後の思い出

短大2期生 大辻房枝

皆様 こんにちは!お元気ですか。私、昭和28年に当短期大学を卒業し、ご縁あって母校の食物科に勤め、栄養士の養成に携わりました“大辻”です。ホームページ開設にあたり何でもいいから一筆書きなさいということで、今日はこれから私の終戦間近の小学生時代からの思い出話をしてみたいと思います。

昭和20年(1945年)3月、小学校卒業、その当時は小学校6年までが義務教育で更に進学する場合には男子は中学校、女子は女学校(それぞれ5年)への入学試験がありました。筆記試験と面接試験が2日間行われるところ、その頃にはアメリカによる本土空襲が激しくその為、筆記試験のみ1日で終わるという状態でした。私は滋賀県立愛知高等女学校に入学しましたが、住まいの八日市からは電車通学、途中空襲警報がなるとそのまま家に帰りました。家は近くに八日市飛行場があったので、敵機が飛行場めがけて爆撃する様子も見られ、ちゃちな防空壕に入って震えていたのを覚えています。幸い町には被害はありませんでした。そして8月15日に戦争は終わりましたが食糧難がひどく、学校へ行っても硬い校庭をほってサツマイモを植えたり堆肥小屋からモッコというものを二人で担いで堆肥を運んだり、田植え、稲刈りも経験しました。

そして、4年生へ進む年、新制中学校(現在の義務教育の中学校)、新制高校制度が誕生。中学校、女学校は終わり、私たちは愛知高等女学校附設新制中学校卒業という事になり、八日市中学校と愛知女学校が合併して神愛高校八日市校舎、愛知校舎となり、私は家の近くの八日市校舎へ入りました。男女共学という制度がとても珍しく、最初はこわごわ相手を見ていましたが、それもすぐ打ち解け、楽しく高校生活を送りました。

今までの専門学校制度が新しく短期大学になり、滋賀県立女子専門学校が滋賀県立短期大学(文・家政部)となり、私は2期生として入学しました。当時は男女共学で、文科には大勢の男性がおられ、私の入った家政科食物専攻にも5名の男の方がおられましたが、しばらくして2名は農業部へ転科され、残り3名は卒業まで栄養士としての勉強を共にしました。28年度(3期生)から男子禁制、さらに29年度(4期生)から文科も廃止されました。

私は卒業後、五個荘の川並病院という個人経営の50床位の小さな病院に栄養士として就職。当時は結核患者が多く、川並病院も殆どが結核患者でした。当時のちゃちな電動式自転車に乗って患者さんの食糧の買い出しにも行きました。勤めて1年7ヶ月後の昭和29年11月に縁あって母校の短期大学に勤務替えしそれから65歳の定年まで栄養士の養成を仕事として勤めました。短期大学で教鞭を執るからには、同じ短期大学卒ではと思いしばらくして日本女子大学の通信教育を受け児童学科に入学、卒業した後、更に考え直し、もう一度今度は食物学科に再入学しました。夏の40日間のスクーリングの為、全国から集まった通信生と寮生活を共にしながら勉強に汗を流し、また日曜日には東京見物にと楽しくいろいろな経験をしました。児童学科在籍の頃は、沖縄からの通信生の方はパスポート持参、外国から参加されるって感じ、大変だなーって思いました。

短大在学中の卒業旅行は北九州でした。卒業後50年(平成15年)を記念して思い出をたどりながらクラスの仲間15名が九州旅行しました。当時より短い3泊4日の旅でしたが、長崎駅からバスをチャーターしてあちこち巡りました。最後の3日目の宿泊地は栃ノ木温泉、小山旅館は50年前と同じ宿、当時とは少し変わっていましたが当時の事いろいろ思い出してとても懐かしく思いました。あれからもう15年、月日の経つ速さを今更ながら噛みしめています。同期のクラス会は5年前に打ち止め。その後は現在に至るまで、関西地方の有志10名程で、毎月1回お食事会をしています。いつまでたっても友達は遠慮なく、気楽に話ができていいですね!

随分長くなりましたが、私の思い出の記、拙い文を最後まで読んでいただき有難うございました。